ガンジーの国はどこへ 人の弱さを抱きとめる 「ニッポン人脈記」朝日新聞4月4日夕刊

 インド東部のコルカタ(旧カルカッタ)から鉄道で2時間余り。森の主のような巨木がそそり立つ緑の中に、タゴール国際大学がある。キャンパスにはモダンな彫刻が立ち、笛や太鼓の音も響く。
 インドの詩人、ラピンドラナート・タゴール(1861−1941)が1901年に建てた学園だ。地元では「シャンティ・ニケタン(平和の園)」と呼ばれる。
 タゴールはアジア初のノーベル文学賞を受賞したが、その人物像は、日本ではあまり知られてはいない。
 8歳若いガンジーと比べたこんな逸話がある。
 ガンジーは学園に来た際、女生徒にサインを頼まれ、こう書いた。「軽率な約束はせぬように。だが、一度した約束は命をかけて守るべし」
 次にサインを請われたタゴールは書き添えた。「誤りと思えば、約束は投げ捨てよ」
 厳しく禁欲を説いたガンジーに対し、タゴールは人の弱さも抱きとめたのだ。
 この逸話は、米ハーバード大教授のアマルティア・セン(門)が著書や講演で紹介している。センの祖父がこの学園の教師で、センも学園で生まれ育った。
 センによると、学園にはタゴールの人柄が表れている。
 授業は、雨降りでなければ原則として屋外だ。マンゴーの樹下で、教師の講義を学生が聴く。自然の懐に抱かれて学ぶ者は多くを手にするという考え方だ。タゴール自身、小学校で落ちこぼれた教訓が生かされている。
 学園には日本や中国から来た教師や留学生が多く、センの外国への関心を刺激した。
 センがまだ少年だった43年、東インドが飢饉に襲われ、200万人以上が餓死した。センにとって、村の道ばたに横たわる遺体は、貧しいインドの原風景になった。
「大飢僅はなぜ起きたか」
「貧困はどう克服できるか」
 そんな問いが経済学を志す動機となり、センは後にノーベル経済学賞を受げた。
 タゴールの生誕から5月で150年。「平和の園」を世界遺産に登録申請し、新しい博物館を建てる記念事業が進んでいる。
 中心になっているのは、タゴール国際大の博物館副館長ニランジャン・パネルジー(36)だ。
「博物館には日本コーナーを設げ、日本との文化交流拠点にするのが夢」という。
幼い時、切手集めで浮世絵に出会った。日本の工業デザインやアニメにはまり、99年、麗沢大に留学した。
「すべてにきっちりした日本が初恋の相手」だ。メールアドレスは「Kokoro(心)」。自宅には南部鉄器の茶釜や伊万里焼が並ぶ。
 甲状腺がんを抱え、7回も手術をした。パネルジーを息子のように可愛がり、気遣うのは先輩のセンだ。治療の資金支援をしたり、手術の度に医師に電話で声をかけたりしてくれる。

 タゴールが異文化との対話を進めた時代、日本は日露戦出争に勝った新興国だった。
 タゴールは日本に強い関心を抱き、5回も来日。美術史の岡倉天心、実業家の渋沢栄一らと交流した。画家でもあったタゴール日本画にほれ込み、日本画家の横山大観菱田春草をインドに招待した。
 講師として招いたのが、仏画家の荒井寛方(1878−1945)だった。
 荒井は学園に2年住み、屏風や襖絵の技を教えた。帰国後は、インドの情感漂う画風で大正時代の画壇にインドブームを起こした。荒井の故郷、栃木県さくら市には、ゆかりの博物館や「寛方・タゴール平和記念公園」がある。
 タゴールは帰国する荒井に、はなむけの詩を贈った。
「荒井さんがはじめ私の家へ入った。帰るときには私の心の家に入った」
 荒井の孫の会社員、河合力(59)はタゴールに接するうち、素朴なメッセージに魅せられた。今、パネルジーと連絡をとり、日本でタゴール記念事業を準備している。
 河合は言う。
「日本は豊かになり過ぎ、忘れ去ったものがあまりに多い。今回の原発の事故は、お前たちはいったい何をしているのか、と大自然が問いかけている気がする。自然の中で、実りある精神文化を求めたタゴールの生き方を見つめていきたい」(竹内幸史)